『みそっかす』より

以前、一文の途中で観点が転換する有名な例として、中島敦の『山月記』を上げた。これは、有名な例ではあるけれども、ほかにも、岡本かの子の例を紹介したことがあるように、けっして特異な例ではない。
似たような例を、上げてみる。

幸田文の『みそっかす』より。

箸を投げて目を覆った。それなり寝床に連れて行かれた。お父さんは迎えに来た。弟を肩に掻きあげ、私を膝に抱きよせ、お父さんのセルの着物が頬に痛かった。(あね)


「…目を覆った」「…連れて行かれた」は「私」を主語とする文である。そして、次文の「…迎えに来た」の主語は、むろん「お父さん」である。
さらにその次文の「弟を肩に掻きあげ」「私を膝に抱きよせ」も、主語は同じく「お父さん」だが、同じ文の続く「お父さんの…頬に痛かった」の主語は「私」である。
つまり、「弟を…」の文は、最初「お父さん」を主語とする表現だったのが、その「お父さん」に「抱きよせ」られた「私」を主語とする文に、転換するのである。

いま1例。

足の拇指の根が痛く引っ吊れて、私は逃げられなかった。その鼻っさきへ箒へぐたりとした蛇を突っかけて差しだし、蛇は頭を起そうとして緩くもがいた。私は貧血し胸がぐっとこみあげた。(花見さん)


「差しだし」たのは文の継母で、「頭を起そうとし」たのは「蛇」である。
ここでは、「蛇」という主語が顕示されているから、先のものより違和感なく読めるだろうが、本質的には、同じことである。

最初の例は、現代の文章語としてのふつうの文章なら、「私を膝に抱きよせたので、お父さんのセルの着物が…」というような論理関係の文として書かれそうなところである。
後の例の方も、「差し出したところ、蛇は…」というような論理関係において把握したくなるだろう。
けれども、文(あや)の文(ぶん)は、そうはなっていない。
「抱き寄せた」という「お父さん」の行為と「痛かった」という「私」の感覚が、また、「差しだし」たという継母の行為と、「頭を起そうとし」た「蛇」の動作とが、連続して表現されているに過ぎない。
こういう表現は、和文脈の特徴のひとつである。

和文脈に論理的把握がないということではないけれども、論理的把握を必須としないのが和文脈だということは言えるだろう。

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