同格雑感(1)

「同格」という文法用語がある。
有名な例として、『伊勢物語』第9段の、

白き鳥、嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に游びつつ、魚を喰ふ。


というものが上げられる。

周知のことに無用の解説をすれば、格助詞「の」の前後が同格(=同じもの)になっていて、それを並列して、「『白き鳥』デ、『嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる』鳥ガ、…」という文脈だということである。
言い換えれば、「白き鳥」が「水の上に游びつつ、魚を喰ふ」のであり、かつ、「嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる(鳥)」が、「水の上に游びつつ、魚を喰ふ」のである。そのことが、格助詞「の」によって明示されている、ということである。

現代文法にも、同じく「同格」という考え方がある。
「苺の赤いの」というような場合なのだが、現代文法の「同格」には考え方に二通りあるようで、

  (1)「苺赤いの」

のように、先の「の」を同格とする場合と、

  (2)「苺の赤い

のように、後の「の」を同格とする場合とがある。

(1)の場合は、古典文法の「同格」と同じに考えれば良い。「苺、赤いの(=苺)」ということである。
(2)の場合は、後の「の」が文頭の「苺」と同じものを指しているから、それを「同格」とするのである。
どちらの考えが主流なのかは、判らない。

さて、水上瀧太郎の『九月一日』という作品を読んでいて、こういう用例を見つけた。

長男の一郎と、長女の甲子と、次女の乙子と、夫人の里の遠縁の者の娘で甲子や乙子の世話をする養子と、一郎の同級生の澤と、女中の延と鉄と、別荘番のじいやとばあやがいた。外には英国種のポインタアの年をとってよぼよぼしているのがいた。


(1)の考えで言えば、「ポインタア」の「の」が、同格である。「『ポインタア』デ、『年をとってよぼよぼしているの(=ポインタア)』」ということである。

ただ、このような「同格」の考え方には問題がある。
同じような始まり方をする文章でも、

ポインタアの年をとってよぼよぼしている姿が哀れだった。


というような文章になることもありうるわけだから、2度目の「の」が出て来ない限り、最初の「の」を同格とは判断できないのである。

ことばというものは、最初から順番に読み、聞きして、理解できるべきものである。
たとえば、「僕は昨日銀座で買い物をした」という場合、文末の「した」を聞かなければ、「昨日」とか「銀座で」とかの意味が判らない、ということはありえない。「僕は」の意味の判断を保留し続けたまま、判断材料が出て来るまで話を聞き続けるということは、ないのである。
むろん、「僕は昨日銀座で」を聞いた段階では、銀座で何をしたのかは判らないけれども、すくなくとも、「僕は昨日銀座で」という情報は、伝わるのである。
もっとも、「僕は昨日アディスアベバに…」と聞いても、「アディスアベバ」がどこなのか、判らないかもしれないけれども、それはアディスアベバ(エチオピアの首都)についての知識を持っていないだけで、文章の意味が判らないのではない。

つまり、「ポインタアの年をとってよぼよぼしているの」まで読まなければ、「ポインタアの」の「の」が同格であると判別することができない、ということは、書きことばであれ、話しことばであれ、それがことばである限り、ありえないのである。
だから、この「ポインタア」の「の」は、「年をとってよぼよぼしているの(=ポインタア)」に対する連体修飾であって、「同格」ではないと考えなければならない。

何時書けるかは定かではないが、(2)に続く。

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