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同格雑感(2)

「続く」と書いたものの、その後気力が続かずに、大分間が空いてしまったが、「同格雑感(1)」の続き。

近代文法に限って言えば、(2)を「同格」と見ることは、それなりの妥当性があるようにも思われる。
「苺の赤い」の例で言えば、「苺の赤い苺」ということで、「苺」と「赤い苺」が同格になっているということである。何より、「苺の赤い」を受けた「の」によって、それが「同格」と判るのだから、ことばの流れにも逆らうことがない。
けれども、古典の文章には、(2)に当たるような「同格」の用法は見られない。
それなら、古典文法の場合は(1)を同格と、現代文法の場合は(2)を同格と見れば良いのかといえば、そういうわけにはいかない。

ポインタアの年をとってよぼよぼしているがいた。


の場合は(2)で、

ポインタア年老いていたく弱りたるあり。


の場合は(1)だと言うのは、まったく理に適わない。古典文と現代文とで、文の構造にそこまで断絶的な格差があるとは考えられない。
いずれにせよ、「ポインタア」の「の」のような「の」について、考えてみる必要がある。

さて、そこで、伊勢物語の例についてである。
まず1点指摘をしておくと、通常の参考書では、「嘴と脚と赤」と連体形になっている理由を、説明してくれていない。
通釈を見ると、大抵の場合、「嘴と脚とが赤くて、鴫の大きさの鳥が」となっている。が、それなら、「嘴と脚と赤」でなければならないはずだが、意図的にかどうかは判らないが、そこには触れられないのがふつうである。

「嘴と脚と赤き」となっているのは、これが「嘴と脚と赤き(鳥)」だからである。だから、「白き鳥」と「嘴と脚と赤き(鳥)」と「鴫の大きさなる(鳥)」が、それぞれ「同格」になっている、とでも説明してくれていれば、まだ判らないこともないのだが、そのように説明されているものは、ないように思う。それは恐らく、「嘴と脚と赤き」に「の」が付かないことの理由が、説明しがたいからではないかと推測する。
「白き鳥の、嘴と脚と…」と始まる文であっても、

白き鳥の、嘴と脚と赤し。


で終わる場合、あるいは、

白き鳥の、嘴と脚と赤き色に、…


と続く場合も、ありうるわけだから、「白き鳥」の時点で、ここが同格だと判断することは、困難なのである。

文の要素としては、「白き鳥」は、「嘴と脚と赤し」の主語(連用修飾語)であるに過ぎないのである。ここが「赤き」と連体形になっているのは、「嘴と足と赤き(鳥)」として、後続する「鴫の大きさなり」の主語(連用修飾語)になっているからである。
さらにここが「大きさなる」と連体形になっているのは、後続する「鴫の大きさなる(鳥)」として、「水の上に游びつつ、魚を喰ふ」の主語になっているからである。

これを要すれば、「白き鳥」が、「嘴と脚と赤」いのであり、かつ、その「嘴と脚と赤」い鳥が「鴫の大きさ」なので、事柄として、「白き鳥」が「水の上に游びつつ、魚を喰ふ」ことになっているのである。が、事柄としては、そうだとしても、文章としては、「白き鳥」が「水の上に游びつつ、魚を喰ふ」ということが、書かれているわけではない。
(未完)

水上瀧太郎の「ポインタア」に刺激されて、つい書き始めてしまったものの、期限に迫られた調べものが断続的にあって、間が空いてしまった。
間が空くと、段々どうでも良くなって来るし、考え方も微妙に変わらないでもない。
それに元々、こういうものは別の場で書こうと思っているということもある。が、書き掛けたものを放ったらかしにしておくのも落ち着かないので、無理矢理カタを付けたのである。だから、中途半端で終わっているのである。

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