「全然」(その12)もしくは「断然」

否定と呼応しない「全然」の用例の追加である。
オトフリート・プロイスラーの作品から。

『小さい魔女』(1965年・大塚勇三訳)

わたしをやっつけろって、ほかのみんなをけしかけたのは、だれだった? 魔女のおかしらにさ、わたしを罰しろって、まっさきにいったのは、だれだった? あいつは、ほうきをとりあげるくらいじゃ、ぜんぜん手ぬるいっていったのよ。もっとだ、もっとだって、わめきつづけていたんだわ。(しかえしの計画)


以前取り上げた、『エルマーのぼうけん』(1963年)と同時期の用例である。
「手ぬるい」が否定(的なニュアンスを含むことば)だ、と言う人もいるかもしれないが、これまで度々述べて来たように、これを否定表現とは捉えない。
上記『エルマー…』と同時に取り上げた、山本周五郎や井伏鱒二の用例と照らしても、昭和40年前後の時点で、「全然」が否定と呼応すると限っていたわけではないことは、間違いがない。

さて、次に引くのは、「全然」の用例ではない。

『大どろぼうホッツェンプロッツ 三たびあらわる』(1975年・中村浩三訳)

もともと、カスパールは、夢の中に妖精アマリリスがあらわれたことを、ゼッペルに報告するつもりでした。だが、いまは、ふたりともほかのことで頭がいっぱいで、しかも、そのことのほうがだんぜん重要です。(ほんの二、三の質問)


この「だんぜん」は、現在の言い方なら「全然」に置き換えても違和感がないだろう。「しかも、そのことのほうがぜんぜん重要です」という言い方は、識者に眉を顰められながら、実際に広く使用されている、いわゆる「俗」な用法である。

上記の「断然」は、並外れて、ずば抜けて、の意。下に否定表現が来た時には、「全然」と同様に、全く、決しての意になる。
獅子文六の『自由学校』より。

あの人とあたしは、フレンドであり、オバサマは、あの人の恋人といふだけのことなのよ。あの人とあたしは、仲がいゝけど、断然、恋人にはなれないの。両方で、全然、もの足りないの。(触手)


「全然」は、否定と呼応しないのは「俗」だと見做されるようになって行くけれども、逆に、「断然」ということばは、「ダントツ」という言い方からも判るように、否定と呼応しない使い方が一般のように思われる。

あるいは、「断然」の意味領域を「全然」が荷うようになったということだろうか。
そのことの当否は別として、「全然」を考えるのに、「全然」以外のことばを視野に入れることも、必要かもしれない。

コメントの投稿











管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://hoshinahouse.blog101.fc2.com/tb.php/595-1ca3a548