「無線電話」

やた管ブログ』の「『破戒』のオーバーツ」のエントリを読んでいて気づかされたのだが、島崎藤村の『破戒』の教室風景に、「机の下で無線電話をかける技師」という部分がある。

この当時、日本にはまだ無線電話が存在しなかったし、あったとしても本当に机の下で無線電話を架けるわけはないから、これは何かの譬えである。
中川@やたなび君は、これを「手紙を机の下から投げる」行為だとする。手紙を手渡しでリレーするなら有線だから、無線という以上、投げたのだと推測するのである。

だが、僕は、この手紙投擲説には承服しかねる。
始終顔を突き合わせていた昔なら、面と向かって激論を交わすところであるが、久しく会う機会がないし、会ったところで今でなければこの問題について議論することもなかろうから、該エントリのコメントに、何度か書き込んだわけである。
とは言え、これ以上しつこく人のブログにコメント重ねるのもいかがなものかという気がするし、学生時代、他人の発表に対してあまりにも自分の意見だけを主張している者がいると、「自分の考えがあるなら自分で発表しろ」などと偉そうに言った覚えがないわけではないことを思い出して、こちらで物言うことにした。

なお、こんな問題は文庫本の注記でも見ればたちどころに解決するだろうと思って見てみたけれども、新潮には、この本文とはまったく関係のない日本海軍の無線電信の実験について書かれているだけだったし、岩波には、注自体が付されていなかった。
恐らく、この本文を読んで、まったく気にならなかったか、あるいは気になったけれども判らないから誤魔化したかのどちらかだろう。斯く言う僕も、まったく疑問には思わずにいた。
疑問を持たなければ、明らかになるものは何もない。何の疑問も持たずに判ったつもりになっていることは、真理と最も遠い所にある。中川君がそこに疑問を持ったことには、素直に敬意を表しておきたい。

さて、『やた管ブログ』から、『破戒』の該当の部分を孫引きしておく。

(か)ういふことを繰返して、問題を出したり、説明して聞かせたりして、数学の時間を送つた。其日に限つては、妙に生徒一同が静粛で、参観人の居ない最初の時間から悪戯(わるふざけ)なぞを為るものは無かつた。極(きま)りで居眠りを始める生徒や、狐鼠々々(こそこそ)机の下で無線電話をかける技師までが、唯もう行儀よくかしこまつて居た。噫(あゝ)、生徒の顔も見納め、教室も見納め、今は最後の稽古をする為に茲(こゝ)に立つて居る、と斯(か)う考へると、自然(おのづ)と丑松は胸を踊らせて、熱心を顔に表して教へた。


手紙投擲説の問題は、この「無線電話をかける」行為について、「電話というからには、誰かと通信することなのは間違いない」と断定している点にある。そこには、「間違いない」ことの積極的な根拠が提示されていない。
同程度の確からしさで、「電話というからには、音声を発することなのは間違いない」とも言えるはずである。電話だから、即音声だとは言えないけれども、そういう解釈の可能性が、消去されていない。
言い換えれば、音声による通信たる電話を、文字による通信たる手紙の譬えとして使うことの妥当性が、示されていないし、「電話というからには、文字による通信(=手紙)ではありえない」というまったく異なる可能性を消去していないから、別種の解釈の成り立つ余地を、放置することになっている。他の可能性がある以上、これが唯一無二の解釈にはなりえない。だから、「そうかもしれないし、違うかもしれない」という程度のことにしかならないのである。

先に書いたとおり、僕は手紙投擲説には左袒しない。多くはコメントに書いたことの焼き直しにはなるけれども、ひと通り、説明する。

「机の下で電話をかける」と言っている以上、その行為は、机の下で完結するものでなければならない。「机の下で」手紙を投げるのであって、「机の下から」するのではないのである。違いは、前者が送受ともに机の下で完結するのに対して、前者は受信の方法を特定していない。
机の下で投げるのが、教師の目に触れないため以外の目的とは考え難いから、手紙を机より高い位置まで投げ上げることは、ないはずである。教師に見つからないタイミングを見計らって投げるのであれば、何も机の下から投げなくても良いからである。投擲の軌道が、教師の視界外にあることが、机の下で投げることの意味だと考えるべきだろう。とすれば、手紙を受け取るのも、机の下でなければならない。
それを前提として、「無線電話」が手紙を投げることだと仮定して、その軌道を想定してみる。

手紙の軌道は、誰に対して投げるのかによっても大きく変わって来るが、確認しておかなければならないのは、手紙の受信者が、机の下から投げた手紙を、机の下で受け取れる人物だと言うことである。
ただし、紙を千切って畳んだ手紙が、大した飛距離を持つことはない。それに、飛距離のために思い切って投げれば投げるほど、着地点のブレは大きくなる。紙を丸めて投げれば飛距離は伸びるだろうが、だとしたら、射撃に譬えるなど、違った表現になったはずである。
また、机の下では投げられる方向が限られると言うことがある。投げる手は、机の下に差し込まれている。机の下には自分の足も入っているから、自由に使えるのは、僅か数cm程度の高さの空間しかない。そこから、窮屈な体勢で、手紙を投げるわけである。
厳密に言えば、利き腕によって、投げることのできる方向は変わって来るだろうが、それは今は問わないことにする。また、明治時代の小学校の机は、2人掛けのものだったようだが、後の時代の1人掛けの机だったとしても、論旨が大幅に変わるわけではない。

さて、投げる方向である。
まず、後ろ側には投げることができない。机の下と後ろの席の間は、自分の身体が塞いでいるからである。椅子の下からなら投げられるかもしれないが、それではかなりオーバーアクションになって教師の目に止まってしまうし、第一、「机の下」という表現に合致しない。

それでは、左右はどうか。これなら何とか、投げることができそうである。ただし、届く範囲は両隣に限られる。しかも、両隣の生徒の机の下も、数cmしかないから、そこにぴったり合わせて投げることは難しい。床に落ちたものを拾う、という行為を認めれば、隣には届くと言えるかもしれない。
だが、1人置いた先になると、隣の生徒の机の下のスペースを通過させなければ届かないから、事実上、不可能である。

最後に、前の席である。2つ前以前の席には、1つ前の生徒の身体が邪魔になって届かない。1つ前の生徒になら、届かないことはないだろう。
ただし、ここにも問題はある。それは、受ける側の問題である。1つ前の生徒は、どうやって手紙を受け取るのか。振り向いた状態で、机の下まで手を伸ばせば、取ることは容易だろう。が、それでは、教師に見つからないために机の下から投げる意味がない。受け取る生徒は、前を向いたまま、さりげなく手を後ろに下げて、後ろの生徒が投げる手紙を、受け取らなければならない。しかも、目立った合図はなしにである。これには、かなり高度な技術が要求される。
とは言え、受け取ることが、絶対に不可能だとまでは言い切れない。

結果、机の下から投げられた手紙を受け取ることができるのは、1つ前と両隣の生徒の3人である。しかしながら、この3人には、手紙を投げて渡さなければならない理由を見出し難い。何故なら、この3人は、手渡しすることが容易にできる位置にいるからである。手渡しをした方が、教師に見つかる確率は、遙かに低い。
以上のことから考えて、「無線電話」が手紙を投げて渡すことだと言う可能性は、皆無だとまでは言えないけれども、かなり低いと言わなければならない。

これで終わっては、否定のための否定だから、ここで、私案を示しておく。
こんな場面を想像してみた。
1人の生徒が、机の裏を爪か何かで引っ掻いて音を出す。教室が一寸沸く。
授業の静粛を破られた教師が、注意を与えるために不届きな生徒を特定しようとした矢先、離れた席で同じような音がする。もう一寸沸く。
今度はそちらに注意を与えようとすると、また別の方向から…。その度に、教室の湧き方が、段々大きくなって行く…。
最初の音を受けて、物理的に繋がっていない離れた席で反応するのだから、音声による通信である。それを、無線電話に譬えた、というのはいかがだろうか。

もっとも、明治時代の小学校にそういうイタズラがあったかどうか、根拠はない。クラス全員で示し合せて決まった時間に一斉に筆箱を落とすイタズラを思い出して、ふと連想しただけである。
最後に、敢えて自説に自ら反駁しておく。
机の裏で音を出すのは、微笑ましいイタズラだが、何人もが連携して行なうかなり大掛かりなもので、「こそこそ」というのとはそぐわない気がしないでもない。
ただし、コソコソという語に「狐鼠」という用字を以てしたところに、何となく忍びやかな音声的イメージを、喚起されないでもない。もっとも、この用字が、藤村独自のものというわけでもなさそうだが…。

話は戻るが、コソコソと言うからには、机の下で誰にも気づかれないように行なわれる行為の方が、相応しいとも言えるだろう。とすれば、手紙説にも、捨てがたいところがある。
が、それは投擲というような派手な行動であるとは思われない。すなわち、僕らの世代ならお馴染みの手紙リレーである。
発信者から受信者まで、配達員が直接届けるのではなく、誰もその場から動くことなく、手紙が運ばれて行くことを、「無線」と表現した、という可能もある。

ただしこれにも、「机の下」以外の場所を通過せざるを得ないことと、「電話」と呼ぶことの必然性を説明できないことに、難点があることは否めない。

要するに、よく判らないのである。オソマツなことこの上ない。

これが難しいのは、それほど複雑なことをやっているのではなさそうなのに、「無線電話」という妙に現代的な言葉で表現されているから、どうしても現代の経験や感覚に惑わされちゃうってことでしょうね。
実際、時代背景さえ考えなければ、机の下で携帯ポチポチやっているというのが一番しっくりきます。
僕としても、手紙投擲説に絶対の自信があるわけではないのですが、「有線」でなく「無線」、「電信」でなく「電話」ということころにどうしても引っかかってしまいます。
これが「電信」ならホシナさんの説のように単純に音を出すことでも納得できますが、「電話をかける」とまで言っているので、なんらかの言葉になったメッセージだと考えてしまいます。
ただ、無線をどうとらえるか。線が見えないというだけなら、手紙リレーでも問題ないようにも思えます。
要するに、よく判らないんですよね~。

「クラス全員で示し合せて決まった時間に一斉に筆箱を落とすイタズラ」も懐かしいですけど、あれは当時流行ったカンペンケースだから成立したことで、ソフトケースが主流になった今の子供に話してもわけがわかんないでしょう。
[ 2012/11/08 03:26 ] [ 編集 ]

Re: 中川@やたナビ さん

問題は、「無線電話をかける」情景を具体的に描けるかどうか、ということにあると思います。描ければ正解だとは一概には言えませんが、描けないなら潔く捨てなければなりません。残った可能性の中から、正解を探るべきでしょう。

当時なら説明なしに簡単に判ったことが今では判らなくなっている、ということは多々ありますが、「無線電話」は当時の読者なら判ったんでしょうかね? 一寸疑問ではあります。
何しろ、無線電話はまだ実験中のものだったわけですし…。

> ホシナさんの説のように単純に音を出すこと…

単純に音を出すのではなく、音に呼応することで通信を成立させているということです。絶対的な根拠はありませんが、可能性の一つではありうるのではないかと思います。
もっとも、手紙リレーに音声が欠落しているのに対して、これはことばが欠落してはいますから、一長一短ではあります。

> カンペンケース

流行りましたよね。今から思えば、到底使いやすいとは言えないですが…。
[ 2012/11/08 22:55 ] [ 編集 ]

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