同格雑感(3)

以前、古典文法のいわゆる「同格」について、それが修飾格(主格)であることを書いた。
つまり、A―B―Cという文で、A―Bが修飾語―被修飾語であると同時に、B―Cも修飾語―被修飾語となっている構文である。BはAに対する被修飾語であると同時に、Cに対する修飾語になっているのである。
有名な例を再掲すれば、「白き鳥の、嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に泳びて魚を喰ふ。」(伊勢物語・9段)の場合、

  白き鳥の―嘴と脚と赤し。
  嘴と脚と赤き(鳥の)―鴫の大きさなり。
  鴫の大きさなる(鳥の)―水の上に泳びて魚を喰ふ。

というふうに、修飾語―非修飾語(主語―述語)が、交錯して連続的に出現しているのである。
結果的に、「白き鳥」が「水の上に泳びて魚を喰」っているのには違いないとしても、「白き鳥」と「鴫の大きさなる(鳥)」が「同格」になって、「水の上に泳びて魚を喰ふ」の主語になっているのではない。

ただ、このように「同格」と見做されている文で、そうでないことを説明しても、「同格」と考えても内容の理解の上で支障が生じないから、どうしても従来の考え方を、墨守しようとしがちである。そこで、「同格」とは理解されていない例を取り上げて、説明をすることを思い付いた。

見れば、あてにこごしき人の、日頃物を思ひければ、少し面痩せて、いとあはれげなり。(堤中納言物語・はいずみ)


「あてにこごしき人の、日頃物を思ひければ」は、「上品で小柄な人、日頃物思いをしたので」というふうに訳されるのが、ふつうだろう。つまり、この「の」は、主格を示す格助詞である。これを「同格」だとするには、一体何と何が同格なのか、説明のしようがない。
むろん、そのことに異論のありようがない。では、何故、「同格」を説明するのに、この用例を持ち出したのか。

この文が、仮に

見れば、あてにこごしき人の、日頃物を思ひける、少し面痩せて、いとあはれげなり。


とあったらどうなるか。

この場合、「上品で小柄な人、日頃物思いをした人が」と訳すのではないだろうか。つまり、いわゆる「同格」である。

実際の本文と、「仮に」の本文は、「見れば、あてにこごしき人の、日頃物を思ひけ」まで一致する。最速で、「…思ひければ」か「…思ひける」まで、「の」が主格であるか同格であるかの判断材料が出現しないわけである。
とすれば、「あてにこごしき人の」まで読んだ段階では、「の」が同格なのか主格なのか判別できず、その判断を保留したまま後の部分を読み進めることになる。そして、後にどんなことが書いてあるかを予め知ることはできないから、後まで読み進めて行きさえすれば必ず判断材料が出て来るという保証は、ないのである。

そんな文章の読み方は、明らかに異常で、ことばが時間とともに展開するものである以上、前から順番に読んで行って、そのまま理解できるのでなければならない。
[蛇足]
以前書いた「同格雑感(1)」「同格雑感(2)」が、断続的にぼちぼちアクセスがあるようなので、調子に乗って書いたまでである。

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