『日本近代短篇小説選 昭和篇1』

読書というのは基本的に主体的な行為で、何かを読もうと思わなければ始まらない。それは、紙媒体でも電子媒体でも変わるものではない。
紙媒体なら書店で買わなければならず、電子媒体なら青空文庫で無料で簡単に読むことができるから、環境が同じというわけではない。だから、お金を出して買ったり図書館に借りに行かなければならない紙媒体よりも、電子媒体―特に無料で購読可能なもの―は主体性が弱いように思えるかもしれないけれども、読むためには作家なり作品なりを検索しなければ、目当てのものには辿り着くことはないから、それもまた主体的な行為なのには違いない。
読書というのはそういう主体的な行為だから、紙媒体であれ電子媒体であれ、興味のないものにはなかなか行き着かない。青空文庫を「あ」から順番に読む、などということをすれば別だが、何が出て来るのかまったく判らずに読むことは、存外苦痛である。

何故そんなことをつらつら述べているかと言うと、岩波文庫から出ている『日本近代短篇小説選 昭和篇1』を読んだからである。

紅野敏郎・紅野謙介・千葉俊二・宗像和重・山田俊治編『日本近代短篇小説選 昭和篇1』

日本近代短篇小説選 昭和篇1 (岩波文庫)

タイトルの通り、近代の短篇小説を集めたものである。本書は「昭和篇」3冊の1、昭和2~17年(1927~1942)までを収める。なお、何故昭和2年からなのかというと、昭和元年が1週間しかなかったからである。
収録されている作品は、下記の通り。

 平林たい子「施療室にて」
 井伏鱒二「鯉」
 佐田稲子「キャラメル工場から」
 堀辰雄「死の素描」
 横光利一「機械」
 梶井基次郎「闇の絵巻」
 牧野信一「ゼーロン」
 小林多喜二「母たち」
 伊藤整「生物祭」
 室生犀星「あにいもうと」
 北条民雄「いのちの初夜」
 宮本百合子「築地河岸」
 高見順「虚実」
 岡本かの子「家霊」
 太宰治「待つ」
 中島敦「文字禍」

編者の趣味によるところもあるのだろうが、収録されている作品の発表年の関係もあるのだろう、プロレタリア文学の比率が高い。とはいえ、全部が全部そうだというわけでもなく、「日本近代の短篇小説」という括りはあるものの、ふと思い立ってそれらをすべて読む可能性があるほどの統一性はない。
プロレタリア文学が昭和初期に文壇を席巻した、というごく浅い文学史的な知識はあるにしても、実際のところ、「蟹工船」を読んだらもう満腹状態で、それでプロレタリア文学の何たるかが十分に判ったような気にもなる。それに、社会に出ても、その程度の知識があれば、国文出身だとしても恥を掻くことはなかろうから、代表的作家である多喜二の作品でも、それ以外の作品など読む機会も必要性もほとんどないだろう。また、宮本百合子ならまだしも、今時、平林たい子や佐多稲子を実際に読んだことのある人は、かなり少ないのではないか。むろん、僕自身もその例外ではなかった。

本書に収められている作品は、個人的には、「機械」と「家霊」を除けばどうしても読んでおかなければならないような作品ではない、という気はする。そしてそれらは、他の文庫本でも読むことができる。が、それだけに、こうして纏められている意味があるとも思う。
富士はその山頂だけで富士なのではない。裾野があって、頂上があるわけである。時間とともに埋もれてしまった作品を読むことで、今でも読み継がれているものにはそれなりの理由があるのだということを、改めて感じることはできるのではないか。

そんな小理屈はともかく、戦前の小説に興味のある人なら、おススメの1冊である。

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