附箋を剥がす(6の下)

附箋を剥がす(6の上)」の続き。『日本近代短篇小説選 昭和篇1』の中から。

その棒を身体の前へ突き出し突き出しして、畑でもなんでも盲滅法に走るのだそうである。(梶井基次郎「闇の絵巻」P122L2)


「つつ」」のエントリで書いた、同じ動詞を2度くり返して「して」を附ける「反復」の用例。


僕思うんですが、意志の大いさは絶望の大いさに正比する、とね。意志のない者に絶望などあろうはずがないじゃありませんか。生きる意志こそ源泉だと常に思っているのです。(北条民雄「いのちの初夜」P260L15)


何となく抽き出しておこうと思っただけの一節。


「はあ。」
と尾田は返して、再びベッドを下りると佐柄木の方へ歩いて行った。
眠られませんか。」
「ええ、変な夢を見まして」(北条民雄「いのちの初夜」P273L8)


あまり意味はないのだが、以前取り上げたのと同様の例だから、再び取り上げておいた。


啓三は、単純なまたそれが当然である簡単さで、日頃から両親のものわかりのよさを語っていた。道子が独りで暮すよりは、
「朝も手だすけしてもらえるし、つかれてかえればちゃんと食事の支度を母がして待っていてくれるようだったら、君も疲れないですむだろうし、時間もできてきっと勉強にも好都合だと思うがどうだろう」そう、道子への手紙に書いてもよこした。(宮本百合子「築地河岸」P297L2)


「道子が独りで暮すよりは」という地の表現が、「朝も手だすけしてもらえるし…」以降の会話表現に直接連接している。これについては、別の機会を持ちたい。


しかもその気分に託し絡め合わせて本来なら自分の家庭へ引きとらなければならないはずの老父母の世話までを、体よく弟嫁にまかせられたならばと思いついたりしている兄夫婦のこせついた生き方を考えると、そういう打算を知らない心で、家族の者に善意だけを向けて考えるしかない境遇におかれている良人の啓三が、道子に一層いとしく思われるのであった。(宮本百合子「築地河岸」P300L15)


「こせこせする」意のことばなのは間違いないが、あまり目にしたことがなかったのでメモしておいた…のだが、調べてみると、こんな例もあった。

但可笑しいのは此閑人がよると障はると多忙だ多忙だと触れ廻はるのみならず、其顔色が如何にも多忙らしい、わるくすると多忙に食ひ殺されはしまいかと思はれる程こせついて居る。(夏目漱石『吾輩は猫である』6)


こんな有名な作品にあり、しかも原文には圏点も打ってある。気づかない時には、気づかないものである。

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