「脚注」の力

今日の朝刊を見ていたら、新潮社の『山本周五郎長篇小説全集』の広告が載っていた。生誕110周年の特別企画らしい。
何でもこの全集の特徴は、「脚注」だそうである。
「脚注」ということばにお馴染みのない方もいるかもしれないが、古典の注釈書には良く見られる、本文の下部に付けられている注のことである。ちなみに、本文の上部に注が付いているのを頭注という。

山本周五郎の小説くらい注がなくても読めるだろうという気もするけれども、中には難しいことばもないわけではない。それに、この「…くらい注がなくても読めるだろう」も比較の問題で、もっと学識のある方から「馬琴の読本くらい注がなくても読めるだろう」と言われたら僕も返すことばがない。難しいことばに注が付けられているのは、親切だと言えるだろう。
なおかつ、この「脚注」は、並ひと通りのものではないらしい。

これまで、何気なく読み過ごしていた語彙の一つ一つに、実に深い意味、味わいがあることを、この全集の「脚注」を通して知ることができます。
登場人物と一緒に、もっと泣き、笑い、感動したい。
美しい日本語を、もっと味わいたい。初めて読む周五郎だけど、物語の奥深くまで、楽しみたい。
そんな望み、全部、叶えます!


それで、実際にどんな注が付いているかというと、本文組見本が付いていて、そこに見られる注は、こんなものである。

押籠 江戸時代の謹慎刑の一つ。罪人を自宅に謹慎させ、夜間の出入りも禁じた。期間は二〇日から一〇〇日まで。
無腰 腰に刀を帯びていない様。丸腰。
月代 江戸時代、成人男子が前頭部から頭の中ほどにかけて髪を半円形に剃りあげた、その部分。
端坐 正しい姿勢で坐ること。正座。


これを見る限りでは、意気込みとはだいぶ掛け離れているようである。『樅の木は残った』を読む人に、「月代」を説明する必要があるのだろうか? 何だか掛け声倒れの感は否めない。
まあ、ごく一部の見本を見ているだけだから、それ以外の箇所に期待することにしよう。

なお、「語彙の一つ一つに、実に深い意味、味わいがあることを」知るための注というのは、かくあるべきだろう。

遠い所 この「遠い所」について、従来の注は健三のモデルとされる作者夏目漱石の経歴と照合して、いずれも〈留学地イギリス〉〈ロンドン〉としてきた。四行目に「遠い国」とあるので全くの誤りとはいえないが、機械的な置き換えは作家の表現意図を狭めることになろう。『道草』には「遠い」「遠ざかる」などの用例が三二ある。そこには、空間的な距離のほか、時間的な距離、人間関係の隔たり、超越的な距離などが含まれるが、これらの要素が複合している場合が多い。空間的な距離を示す一一例の中でも「遠い田舎」「遠い戸口」「遠くの空」などは国内を指し、「遠い所」五例に限定しても、熊本(九八6)ならびに東京近郊(一八二14)を指すものがある。ここでも、国内の土地を含めて健三が遍歴して来た異郷の全体を暗示し、現在の健三からの心理的な距離と感慨とが込められていよう。(岩波文庫『道草』注・相原和邦)


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