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用例を検索すること

先日、青空文庫世話人の富田倫生さんの訃報を目にして、ふと思ったこと。

僕のブログにも、時々青空文庫が登場するけれども、たいていは、「邪道」とか「安直」とか、マイナス表現とともに現われている。
それを以て、僕がアンチ・青空文庫だと思われる向きがあるかもしれないけれども、それは違うのである。
もっとも、僕がアンチだろうがなかろうが、それで青空文庫の価値に影響があるわけではないからどちらでも大した違いはないのではあるけれども、この機会に、「邪道」や「安直」の謂を、書いておいてみようかと思ったのである。

古典の作品には昔から「索引」というものがあって、研究者には必携のものである。
世の中にありとあらゆる文献をすべて自力で読み尽くすことはできない~否、一つの作品ですら、隅々まで読んで用例を探すのは大変である~から、「検索」を使うのは有効である。
「ことば」について考察したもので、索引も使わずに書かれた論文など、(むろんテーマにもよるけれども)たいていの場合、ロクなものではない。

ただ、古典の場合には、主要な作品はあらかた索引が出ているから良いのだけれども、近代の文章ではそうはいかない。索引の必要性を感じていない人が多いということもあるだろうが、何しろ、主要な作品の数が古典とは比べ物にならないくらい多いのである。それを一々索引にしていたところで、到底間に合わない。
けれども、何かの語句を考察しようとするのであれば、用例の収集は欠かせない。それが、青空文庫のお蔭で、主要な作品どころか、主要でない作品ですら、容易に用例を検索できるようになった。それは青空文庫の本来の目的ではないにしても、近代語の研究に裨益するところ、多大であるのに違いない。

用例を容易に発見できるようになったこと自体は、悪いことではない。が、悪い面もある。容易に用例を探せれば探せるだけ、作品そのものを、読まなくなるのである。
その語句の出ている文か、せいぜいその前後の文を見て、半解して引用してしまうことになりがちである。それで、文章をきちんと読めばそんな解釈はできない、というようなおかしな解釈で引用をしてしまうことがある。

僕の師匠は、古典の索引を数多く手掛けた人だったけれども、「伊勢物語くらい、索引を使わなくても用例を探せるだろう」と仰っていた。作品を熟読してあらかた頭に入れた上で、たしかこの作品のこのあたりに用例があったはず、というのを確認するために索引がある、ということである。
むろん僕の如き凡人には、そんな真似はできないけれども、できるだけ、実際に文章を読んで用例を探そうというふうには思っている。それで、読者には何の意味もない、「附箋を剥がす」なるエントリを、数多く遺しているのである。

が、青空文庫を前にすると、その便利さに抗し切れず、「邪道」な手を使って「安直」に検索して使ってしまうことになる。しかも、作品を熟読して文脈を熟慮することもなしに。
むろん、青空文庫で検索できるものを知らぬ顔で通すのは手抜きだけれども、青空文庫で検索したものと、自分で読んで探し出したものとでは、資料としての価値が、(すくなくとも僕にとっては)違うのである。
「邪道」とか「安直」とかいうのは、そういう僕の惰弱な精神に対する自戒を忘れないために、使っているのである。青空文庫自体が「邪道」だったり「安直」だったりするのでは、毛頭ない。

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