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読書感想文の書き方・その3

久しぶりに「読書感想文の書き方」を書いているが、今回はこれまでとちょっと違う趣旨である。

今年の夏休み、中学2年の娘が、恒例の読書感想文の宿題を、苦労しながら何とか仕上げた。対象作品は、芥川龍之介の『鼻』。
切羽詰って家にあった本の中から短いものを選んだようだが、実はこの作品、かなりの難敵である。到底、一筋縄で行く作品ではなく、深く読みこんでみないと、どういう作品なのか、判らない。短いだけに、難しいのである。
その割にはまずまず頑張ったとは思うのだが、粗筋がかなりの比率を占めていた。中2ともなると、課される枚数は400字詰め原稿用紙で5枚、中々の分量である。娘には、粗筋は最低限で良い、ということを言いはしたのだが、ただ粗筋を省いただけでは、所定の枚数を大幅に下回ることになる。感想文なのだから…などと理屈だけ言うのは酷だろうし、既に大幅に書き直すほどの時間もない。だから、粗筋が多くなるのも致し方ないところだとは思う。

けれども、読書感想文は、提出することが最大の意義なのではない。提出するという事実はむろん重要だけれども、それだけで終わっては意味がない。自分が書いたものが、ほかにどのような書きようがあったのか、顧みて考えることは大切だろう。
それで、見本というほどのものではないが、「お父さんならこう書く」ということを示しておくことにした。娘に読ませるために書くものだから、娘が自分の感想文の中で使ったキー・ワードや視点は、極力取り込むように配慮した。
むろんこれが正解だというわけではなく、こういう書き方もある、という一例にすぎない。公開するほどのものではないが、娘に見せるだけだから、と手を抜かないために、ここにアップすると決めて書いたものである。

   芥川龍之介の『鼻』を読んで

ホシナ@ハウス   
 「こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない」――短くなった鼻がまた元の長さに戻った時、禅智内供はこう考えました。そして、「はればれした心もちが、どこからともなく帰って来る」のを感じるところで、『鼻』は終わります。
 この作品の中心になっているのは、内供の鼻の話題です。内供は、五六寸もある長い鼻を、内心気に病んでいました。ある時、弟子の僧が教わって来た鼻を短くする法を試してみると、その効果が現われて、鼻は短くなりました。
 ところが、短くなった内供の鼻を見て、周りの人々が笑うようになります。短くなる以前には、人々があからさまに笑うことはありませんでした。元の長い鼻に戻った内供が「もう誰も哂うものはない」と考えたのは、鼻が元に戻れば、周りの人々の態度も元のようになると思ったからです。内供の鼻が長くなった後のことは書かれてはいませんが、果たして本当にそうなったのでしょうか。
 そのことを考える上で、最初に書いた「もう誰も哂うものはないにちがいない」と言う言葉がヒントになると思います。内供がそういうことを思ったのは、実はこれが初めてではありません。ほとんど同じ言い方で、内供が「こうなれば、もう誰も哂うものはないのにちがいない」と考えるところがあるのです。それは、長かった鼻が短くなった時のことでした。そしてその時、内供は「のびのびした気分」になっています。
 この部分は、長い鼻に戻ったところと良く似ています。鼻が短くなった時にも、内供は元のように長くなった時と同じような気持になったということです。けれども、長い鼻が短くなった時、その結果は内供の期待した通りのものではありませんでした。
 見た目から考えれば、長い鼻はおかしく、短い鼻はおかしくないはずです。だから、内供には、鼻が短くなって人々が笑うようになった理由が分りません。短い鼻が見慣れないからだとも考えてみますが、それだけが理由ではないようです。
 内供のことを笑うようになった周りの人々の気持を、作者は「傍観者の利己主義」という言葉で説明しています。鼻が長いという内供の不幸に対して同情していた人々が、鼻が短くなってみると、何だか物足りない気がして、もう一度同じ不幸に陥れてみたいような、消極的な敵意を持つようになる、ということです。つまり、鼻が短くなることによって、周りの人々が持っていた内供への気持が、同情から敵意へと変化してしまったのです。それが、周りの人々が内供のことをあからさまに笑うようになった理由です。
 内供はそういう周りの人々の気持の変化に気付いていないようです。長い鼻に戻った内供の「もう誰も哂うものはないにちがいない」という気持は、鼻が短くなった内供の「もう誰も哂うものはないのにちがいない」という気持と違いがありません。そしてその時に感じた「のびのびとした気分」と「はればれとした心もち」の間にも違いはないでしょう。
 内供は最初、長い鼻が短くなれば笑われることはないと考えました。そして今度は、長い鼻に戻れば笑われることはないと考えたのです。長い鼻が短くなった時と、短い鼻が長くなった時とで、内供の気持には変化がありません。内供にとって、周りの人々の態度の変化は、見た目の問題に留まっていて、気持の変化を捉えることができていないのです。
 周りの人々の気持が、内供の気持と同じように元に戻ったのだとしたら、内供のように「もう誰も哂うものはない」と考えて良いかもしれませんが、内供の鼻は、単に長いのではなく、長かったものが短くなって、また長くなったのです。
 鼻が長かった時には内供に同情していた人々の気持は、鼻が短くなった時に「傍観者の利己主義」によって敵意に変化してしまいました。それは、内供が不幸を切り抜けたことに対して物足りない気持を持ったからです。だとすれば、鼻が短くなったことによって人々に笑われるという不幸を、鼻が長くなることで内供が切り抜けた時に、周りの人々が感じることは、やはり「傍観者の利己主義」による敵意だと思います。鼻が元のように長くなったとしても、一度笑われるようになってしまった内供が笑われなくなることはないのではないでしょうか。
 この作品は、単なる内供の鼻についてのおもしろいお話のようにも見えます。また、最後に内供が「はればれとした心もち」になることによって、さわやかな印象で終るようにも思えます。けれども、登場人物の気持を良く考えながら読んで行くと、内供の鼻をめぐる、周りの人々の気持の変化が深く書き込まれていることが分ります。そして、その変化に気付くことのできないない内供の気持のずれが、うまく書かれていると思いました。


まあ、半日で仕上げたものだから、大したことはない。特に後半は、もっとふくらませたほうが良いだろう。
もっとも、時間を掛けたらもっと良くなるかといえば、そんなこともないだろうが。

原稿用紙バージョン

娘からは、特に反応はない。

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