「ほのぼの」についてのメモ

しばらく更新せずにいたので、ずいぶん前に書いて没にしてあった下書きを、掘り起こして来た。

『金葉和歌集』に、次のような歌がある。

  山家暁月をよめる 中納言顕隆
山里の門田の稲のほのぼのと 明くるを知らず月を見るかな(215番歌)


新日本古典文学大系によれば、「山里の門田の稲の穂がほんのりと明るくなって、夜が明けて行くのも知らずに月を眺めていることよ」という内容の歌だという。
この訳を見ても、どういう意味だか良く判らないのだが、月を眺めているうちに朝になって「山里の門田の稲のほ」に日が射して来たけれども、空が明るくなって来たことに気づかずに月を見続けていたということなのだろうか。なお、岩波古語辞典によれば、「ほのぼの」は、「あけぼののうす明るいさまさま」を指す語だという。
ふつうに考えれば、そんなことがあるはずがない。何かに夢中になっていて別のことに気づかなかった、ということはあるにしても、月を見ていて空の明るさの変化に気づかないわけがない。もし気づかなかったとしたら、よほど迂闊である。
顕隆が迂闊な歌を詠み、それを撰者が迂闊にも採録したと理解するか、それともこのありそうもない解釈を改めるか、と言えば、むろん後者を前提に、考えるべきだろう。

現代の小説に、「月に見とれていて、空が明るくなったのに全然気づかなかった」などと書かれていたら鼻白む人でも、古典文学に同じようなことが書かれていると言われると、現代と古代とは違うものだという先入観からか、いとも簡単にさもありなんと納得してしまうことが少なくない。
古典を読む時には、こういうすこし考えれば誰にでも簡単に気づける非常識を、疑いながら読まなければならない。
[蛇足]
まぁ、僕の和歌の解釈は、和歌の専門家からはすこぶる評判が悪いから、そのつもりで。

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