「耳障り」

最初に断っておくけれども、何等かの結論があるわけではない。
もとより、それは今回に限ったことではないけれども…。

「耳障り」ということばが、「耳ざわりのいい音」などと肯定的に使われる例がありますが、本来否定的な意味をもつ用語ではないでしょうか。
そのとおりです。(NHK放送文化研究所


実に気持が良い。明快である。
リンク先のページには「本来は聞いて不愉快に感じたり、うるさく思ったりする場合に使われることば」だという説明がある。
「本来」というからには、その根拠を示してほしいところではあるのだが、次のような事例が上げられるから、まあ、良しとしよう。

浪花節が始まつた。一同謹んで拝聴する。私も隅の方に小さくなつて拝聴する。信仰のない私には、どうも聞き慣れぬ漢語や、新しい詩人の用ゐるやうな新しい手爾遠波が耳障になつてならない。それに私を苦めることが、秋水のかたり物に劣らぬのは、婆あさんの三味線である。此伴奏は、幸にして無頓著な聴官を有してゐる私の耳をさへ、緩急を誤つたリズムと猛烈な雑音とで責めさいなむのである。(森鴎外『余興』)


『大日本国語辞典』を見ると、「耳障」は「聞きて気に当たること。聞くも厭はしき事」とあるから、この鴎外の使い方の通りである。
めでたしめでたし。NHKバンザイ!

さて、何故今頃そんなことを書いているのかというと、かなり前から気になってはいたもののどこにあったのかさっぱり思い出せずにいた用例が、昔のメモの中から見付かったので、また行方不明にならない先に上げておこうとするのである。

「私に云はせると、奥さんが好きになつたから世間が嫌ひになるんですもの」
「あなたは学問をする方丈あつて、中々上手ね。空つぽな理屈を使ひこなす事が。世の中が嫌(きらひ)になつたから私迄も嫌になつたんだとも云はれるぢやありませんか。それと同じ理屈で」
「両方とも云はれる事は云はれますが、此場合は私の方が正しいのです」
「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白さうに。空の盃でよくああ飽きずに献酬が出来ると思ひますわ」
奥さんの言葉は少し手痛(ひど)かつた。然し其言葉の耳障からいふと、決して猛烈なものではなかつた。(夏目漱石『こゝろ』上、16)


ことばが「手痛か」ったとしても、この「耳障」には価値観のマイナスはなさそうである。
何とか理屈をこねくりまわして辻褄を合わせようかと思ったのだが、念のため『日本国語大辞典(第2版)』を引いてみた。すると、「耳触」が立項されていて、「聞いた時の感じ。印象」とある。
旧版には立項されていないから、最近の用法として取り上げられているのかと思って用例を見て驚いた。
先の漱石を含め、以下の例が上げられている。孫引きで示すと…。

『俳諧 雲の峯』(1807)「風の音耳さわりよき幟かな」
永井荷風『珊瑚集』(1913)「随分耳触りのよくないものもあるが」
夏目漱石『こゝろ』(1914)(上記の用例)
北村寿夫『街頭の風』(1930)「常務の演説は上手で、耳ざはりがよかった」
石川淳『鷹』(1953)「こころみにこれを発音してみると、耳ざわりに曖昧なところが微塵も無い」


前後の文脈は分明ではないけれども、ミミザワリが「良い」(北村)「良くない」(荷風)というからには、ミミザワリ自体に、価値観のプラスもマイナスもないと考えるべきだろう。

否定と呼応しない「全然」ほど頻出するわけではないようだし、『大日本国語辞典』の記述も考えれば、これだけの用例で簡単に結論が出せるわけではないけれども、軽々に「本来は」云々ということもできそうにはない。

コメントの投稿











管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://hoshinahouse.blog101.fc2.com/tb.php/907-d4425df0