附箋を剥がす(27)

だいぶ以前に読んだ、アストリッド・リンドグレーン作・尾崎義訳『さすらいの孤児ラスムス』(岩波少年文庫)より。
子供のために買って来た本だから、本当は附箋は貼っていない。

本書自体は2003年の発行だが、あとがきと訳者の没年とから、1965年の訳と見られる。

オスカルはうす暗がりのなかを、リュックサックをしょって歩いていった。そして乾草納屋の車道をのぼっていった。ラスムスは、オスカルがその納屋の大きい戸をあけるのを見た。それから、オスカルの姿はそのなかに消え、それきりもうオスカルは見えなくなってしまった。(P282)


引っかからなければ、まったく引っかからずに読むことのできる文なのだけれども、そこをあえて引っかかってみる。

「ラスムスは、オスカルがその納屋の大きい戸をあけるのを見た。…それきりもうオスカルは見えなくなってしまった。」というのは、作者がラスムスの視点で書いたものだけれども、それと同一の文として書かれている、「オスカルはうす暗がりのなかを、リュックサックをしょって歩いていった。そして乾草納屋の車道をのぼっていった。…それから、オスカルの姿はそのなかに消え、」というのはオスカルの行動を書いたものである。
もっとも、「それから、オスカルの姿はそのなかに消え」という部分は、ラスムスの視点で書いたものとも見做せそうだけれども、どちらかといえば作者の視点と見た方が、良いように思う。
「オスカルの姿がそのなかに消え」とあれば、ラスムスの視点だけれども、「オスカルの姿は」とあることで、作者の視点とラスムスの視点とが微妙に交差する文なのではないかと感じるのである。

事柄を伝えるには、客観的な描写の方が優れているのは言うまでもないけれども、登場人物に寄り添った表現の方が、読者に親近感を沸かせることがでて、作品の世界に没入しやすい。
特に、ラスムスは想定される対象読者と年齢の近い少年だから、ラスムスに近しい視点で描くことで、より読者の興味を惹くことができるのではないか。

そうだ、おれたち、家だって自由にできるんだ。できなくって、たまるもんか。まあざっと、こんな家、これをおれたちの家に決めようや。(P298)


「できなくって」が目に止まって取り上げた。
条件接続として「できなければ」という言い方にした方が、論理性の高い文になるとは言えようが、「なくって」という列叙接続が使われている。以前取り上げた、漱石の「不人情でなくって」と類同の表現である。

※翻訳の文章は、原文にどうあったかが大きな問題になりうるけれども、あくまでも原文と訳文は別のものという立場から、日本語の問題として、取り上げるのである。

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