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『青蛙堂鬼談』

特に何かを買うわけではないのに、一と月に文庫本1 冊買えるくらいのポイントが貯まるサイトがあり、しかもそれが期間限定のポイントなので、それでふつうなら買わないような文庫本を捜して買うことがある。
それで、最近買った本。

岡本綺堂『青蛙堂鬼談 岡本綺堂読物集二』(中公文庫)

青蛙堂鬼談


僕の性格からすると、「一」を読まずに「二」を読むのはどうにも気持ちが悪い。仮に読まないにしても「一」を持っていないというのがどうにも落ち着かない。短篇連作で「一」と「二」との間に特段の連関がないとはいえ、である。
それが何故に「二」を買ったのかというと、そのサイトの商品ページで書名にサブタイトルが併記されておらず、「二」だということに気づかなかったからである。実に出来の悪いサイトである(だからそのサイトにはリンクを貼っていない)…が、実質的にはロハで貰ったようなものだから、これ以上文句は言わない。

さて、この本を読んで何が驚いたかと言うに、2012年初版のものであるにもかかわらず、旧かなづかいで書かれていることである。内田百閒ですら新かなづかいに改められて久しく、今や国文科の学生でも旧かなづかいの作品を読みこなすことが覚束ない状況である。「当時の読本の雰囲気を伝えるべく」(編集部)したことだと言うけれども、ずいぶん思い切ったことをしたものだと思う。それが2014年に再版されていることは、もっと驚きだが。

「鬼談」というタイトルから想像が付くように怪談(と断定して良いかどうかは判らないけれども)だけれども、ただ恐怖を煽り立てるような派手なものではなく、 さほど怖いわけではない。が、面白い。文章が実にしっかりとしていて良い。
岡本綺堂の小説は「半七」しか読んだことがなかったのだけれども、それとはひと味違ったじっくりと読ませる話である。

続き…というか、「一」から、改めて読んでみたいと思う。

『[文法]であじわう名文』

当ブログの数少ない読者諸兄に告ぐ。
敢えて理由は言わないが、本書を強く推奨し、購入を懇請する。

馬上駿兵『[文法]であじわう名文』

[文法]であじわう名文

以上。

附箋を剥がす(30)

『日影丈吉傑作館』(河出文庫)より。

駅の近くの市場の前で、わたしは宮の妻君に別れ、病院に引返した。その短い時間、いっしょにいるのが堪えられないほど、わたしは女を気の毒に思った。(「ねじれた輪」P107)


「妻君」は宛て字だろうが、判りやすい。それはそれとして、過去何度か取り上げた「に」の使い方。

ふいに幸運に眼がくらんだような気持も手伝って、洲ノ木はその晩ひどく酔っぱらい、川本に明日を約して別れてから、やっとの思いで家に辿りついた 。が、目のさめた昨日の今朝は、川本という男が酔ったまぎれに幡随院をきめこんだのを真に受けて、ありがた涙をこぼさんばかりだった、彼の単純さが腹立たしくさえなった。(「吉備津の釜」P139~140)


烏森の飲み屋で偶々同席した男(川本)から就職の世話をするという話をされた次の日の場面。
「幡随院をきめこむ」なんていうことばを目にしたことがなかった。辞書を引いても出て来ない。……が、考えてみたら、幡随院長兵衛は口入れ屋だった。

「やっぱり、ぼくが秘密のミッションを背負いこむことになったな」と、豊岡は愉快そうに笑いながら、いった。
「うちの会社が東南亜に得意先をつくりだした時から、そうなるくさいとは思ってたんだが」(「消えた家」P161)


「……くさい」ということばは、特別珍しいものではない。

(接尾語的に用いて)〔(ア)省略〕 (イ)いかにもそれらしい。「バター」(=西洋風だ)」 (ウ)その程度がひどい。「めんどう―」(『旺文社国語辞典』)


『新明解国語辞典』をみると、「……くさい」の前に来る語は、古い版には「形容動詞の語幹」とあり、最近の版にはそれに「体言またはそれに準ずる句」が加えられている。「うそくさい」とか「ばかくさい」とか。
「そうなる」というようなことばが前に来るのは、あまり見たことがない。

大学を出て、親父さんの自動車修理工場の見習いをしてた友人を、一度そこへ連れてゆくと、すっかり料理が気に入り、それから何度かいっしょに行った。(「夢ばか」P190)

私の家があったのは東京のはじっこの町である。そこには、くねくねと曲った舗装のしてない道路を中心に、 平家か二階建ての家が押しならんで、それよりも高い家は一軒もなかった。(「泥汽車」 P229)


著者は 明治41年生まれ。「…ている」「…ていない」ではないことばを使っているのは、珍しいのではないかと思って抽いておいた。

「まったく、顔を見合わす、というのは、ふしぎなことです」と、竪野はうなずきながら訥々とこたえた。(「人形つかい」P193)


形容詞の丁寧な表現の作り方の事例。


球は家にいた。勤めているあいだは、勤め先の秘密にわたるような話はできなかろうが、やめてしまえば、もう義理にしばられる気にもならないだろうと考え、吾来は何か聞きだすつもりで来たのだが、多少は目的を達しられた。(「明治吸血鬼」P281)


「達しられた」が気になった。
「られる」が付いているからには「達し」 は未然形だから、上一段型に活用する「達しる」という動詞かもしれない、コレは発見か? と思って『日本国語大辞典』を引いたらふつうに載っていた。

たっしる【達】〔自他サ上二〕(サ変動詞「たっする(達)」の上一段化したもの)「たっする(達)」に同じ。


が、載せられていた用例は未然形のもの。上二段活用と認定するためにはそれ以外の活用形もなければならない、と思って青空文庫を検索したら、幾つも出て来た。
梶井基次郎「交尾」から、一例を、孫引きする。

その声は瀬をどよもして響いていた。遠くの方から風の渡るように響いて来る。それは近くの瀬の波頭の間から高まって来て、眼の下の一団で高潮に達しる


何とういうことはない。

附箋を剥がす(29)

ついこの間から、暫くの間「積ん読」していた『日影丈吉傑作館』(河出文庫)を読んでいる。
その中で、ちょっと気になったところを抽いておく。
「彼岸参り」(1958年)より。

前列から二番目の席にかけている、スーツを着た老婦人がスチュアデスに話しかけた。
「この前、まいりました時は、たしか……」
「この前は、いつ、お出でにになりました」
「ちょうど五年前、主人の七回忌の時に」
「ええ……でしたら、その時はまだ……この式に改良されましたのは、一昨々年からですわ」
「そうですか、あの頃は、お危のうございましたね」と、いうと、昔者らしい、スーツを着た老婦人は、あはあはと笑った。(一、P64)


割と最近、別のところで「……うございます」形式の形容詞の丁寧な言い方について書いたことがある。
その時に、「とんでもない」の理論上の丁寧な言い方「とんでものうございます」の実例を見たことがない、とも書いたのだけれども、上記の「危のうございます」が使われている同じ作品の、同じ人物の会話表現でも、やはり、「とんでものうございます」は使われていない。

「だが、なんだってタグボートを改良したんだい……」と、井ノ本はいらいらした声を出した。
「そんなに、お客が喜ぶものを、模様替えする必要はないじゃないか?」
「いえ、あなた……真空の中に出ることは禁止になったんでございますよ」と、婦人がすかさず口をはさんだ。
「禁止ですって、まさか、あなたが五年前に、政府に陳情書を出したわけじゃあ、ありますまいね……」
飛んでもございません……新聞でお読みになりませんでしたか?」
「さあ、三年前のことではね?」(一、P66)


その他、最近では「正しい言い方」とされている「……ことでございます」の例。

「自殺なんて、伝染病のようなもので、ございますね」
「そう申せましょうね……現代ではもう、精神性の伝染病以外にはなくなりましたから」
「ほんとに恐ろしいことで、ございます……はじめ、どなたか一人、試しにおやりになると、すぐ真似をする方が出てくるのですからね……はじめは学生さんでしたか、いきなりタグボートの手すりを乗りこえて、外へ飛び出したんで、ございますってね」(一、P67)

「なかには、もっと積極的なのも、いたんだよ……宇宙服を脱ぎ捨てて、ぱッと飛び出したのがある……これは生身で、いきなり真空の中に入ったから、内臓が破裂して、いっぺんにオジャンさ……そんなこんなで旧式のタグロケットは、禁止されたんだ」
「ほんとに恐ろしいことで、ございます
七十歳の中年婦人は、同じ文句を繰り返した。(一、P68)


これも、同じ作品の、同じ人物の会話である。
形容詞の丁寧な言い方は、固定的にどれが正しいと言えるものではなくて、語によって、違いがあると考えた方が良いのかもしれない。

「リベンジ」

「リベンジ」使う人、「雪辱」の3倍 メールなど独特“打ち言葉”浸透

「リベンジ」を使う人の割合は「雪辱」の3倍-。文化庁が21日に発表した平成27年度の「国語に関する世論調査」で、カタカナ言葉の使用頻度の高まりが明らかになった。メールなどで文字を打ち込む際に絵文字を使う割合も6割近くに上り、話し言葉でも書き言葉でもない独特の“打ち言葉”の浸透ぶりが浮かび上がった。

同じような意味の漢字とカタカナ言葉で、どちらを主に使うか尋ねたところ、「リベンジ」は61.4%、「雪辱」は21.4%だった。30代以下では「リベンジ」派が8割を超えた。その他では「アスリート」の使用割合が46.0%に上り、「運動選手」の33.3%を上回った。(産経ニュース)


カタカナことばを使う度合いが増えているのは間違いなく、こういう調査を否定するつもりはないけれども、とはいえその分析を鵜呑みにすべきでないことは言うまでもない。

「リベンジ」と「雪辱」のどちらを使うか、と聞かれた時にどう答えるか。
生まれてこの方「リベンジ」なんて使ったことがない、という方なら躊躇なく「雪辱」と答えるだろうけれども、僕ならちょっと迷ってしまう。
そういえば最近、「雪辱」なんて使った記憶がない、「リベンジ」なら使わないこともない、と思って「リベンジ」と答えるかもしれないけれども、ちょっと待て、とも思うのである。

英語の原義はともかく、現代日本語としての「リベンジ」は、商店街の福引きでハズレを出して、続けてもう1回引く前のようなシーンでも使える程度のごく軽いニュアンスを持ったことばである。同じシチュエーションで「雪辱」を使うことはまずありえない。「雪辱」に近いニュアンスで使われることもあるとしても、そうでないニュアンスを多く持っているのである。
つまり、
 雪辱 = リベンジ
ではなくては、
 雪辱 ⊂ リベンジ
ということである。
「雪辱」も「リベンジ」もどちらも使う、という人にしても、実際問題、「雪辱」を使うシーンは、そうそうあるものではないだろう。だから、どちらを使いますか、と聞かれたら、「リベンジ」と答える人が多くなるのは当り前である。
つまり、「雪辱」と「リベンジ」を「同じような意味」のことばとして二者択一させることに、妥当性があるか、ということである。

「再挑戦」「もういっちょ」「今度は勝つぞ」などと言っていたことばが昨今では「リベンジ」に置き換えられているわけだから、カタカナことばが増加しているのは間違いなく、この調査の結論が間違っているわけではないだろう。
が、こういう調査結果を見た時に、何も考えることなくしたり顔で受け売りしたりすることは、やめた方が良い。

いわゆる「ら抜き」

「見れた」「出れる?」…「ら抜き言葉」初めて逆転 「確信犯」の誤用は7割

21日に発表された文化庁の平成27年度「国語に関する世論調査」では、文法上誤りとされる「ら抜き言葉」も調査対象となり、「見れた」や「出れる?」などの使用割合が初めて本来の表現を上回った。

「ら抜き言葉」の調査は今回が5回目。「見られた」と答えた人は44.6%で「見れた」は48.4%、「(早く)出られる?」は44.3%で「(早く)出れる?」は45.1%と、それぞれ逆転した。

いずれも年代が若くなるほど「ら抜き」を多用する傾向がみられ、40代以下はどの年代も5割を超えた。ほかにも「来れますか」が44.1%で「来られますか」の45.4%に肉薄した。

こうした傾向について、文化庁の担当者は「逆転したのは『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高い言葉ばかり。例えば『見られた』だと受け身の表現にも聞こえる。らを抜くと意図が伝わりやすいので多くなっているのかもしれない」としている。(産経ニュース)


やはり定番のいわゆる「ら抜き」(厳密には「a-r抜き」。以外単に「ら抜き」と言う)の問題が興味深い。
とりわけ、文化庁の担当者が調査の内容を理解して発言しているかどうかに興味が沸く。

文化庁の「平成27年度「国語に関する世論調査」の結果について」によれば、調査に使われたのは、こんなものである。

(1)
(ア)こんなにたくさんは食べられない 60.8%
(イ)こんなにたくさんは食べれない 32.0%
(2)
(ア)朝5時に来られますか 45.4%
(イ)朝5時に来れますか 44.1%
(3)
(ア)彼が来るなんて考えられない 88.6%
(イ)彼が来るなんて考えれない 7.8%
(4)
(ア)今年は初日の出が見られた 44.6%
(イ)今年は初日の出が見れた 48.4%
(5)
(ア)早く出られる? 44.3%
(イ)早く出れる? 45.1%

(4)(5)が逆転している例で、(1)(2)(3)がそうではない例である。
文化庁の担当者が「逆転したのは『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高い言葉ばかり」と言っている意味が判らない。
むろん、「『見られた』だと受け身の表現にも聞こえる。らを抜くと意図が伝わりやすい」ということ自体は容易に理解できるのだけれども、実はこれは何も言っていないのと同じである。逆転していないものが「『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高」くなく、「らを抜くと意味が伝わりやす」くないことが説明されていない。

逆転していない(1)の「食べられる」「食べれる」についても、前者が可能・尊敬のいずれにも取れるのに対して、「食べれる」なら可能にしか取れない
例文の「こんなにたくさんは食べられない」は可能としか考えられないけれども、「少しですけど食べられますか」なら尊敬の可能性が高そうである。「たくさん食べられますか」だったらどちらとは断定できない。「食べれる」にすれば、可能に限定されるから、「意味が正確に伝わる可能性が高」くなるはずである。
これは(2)でも(3)でも同じである。そもそも「ら抜き」というのは、それによって可能動詞を作っているのだから、「意味が正確に伝わる可能性が高」くなるのは当り前のことである。
(2)はかなり拮抗しているけれども、(1)(3)にはかなりの開きがあって、「ら抜き」を使っているのはまだ少数派のようである。
「『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高い言葉」であるのに「ら抜き」が一般化していないことばがあるにもかかわらず、それを考慮しないで、「『ら抜き』にすることで意味が正確に伝わる可能性が高い言葉」だから「ら抜き」が使われているのだ、というのは、いわば、りんご畑で「赤くなっている実はりんごばかり。りんごは赤くなりやすいのかもしれない」と言っているに等しい。

「おけ」

僕はテレビを見ていてその場で何かコメントするようなことは滅多にしないのだけれどもこれはつい反応してしまった。

「OK」を「おけ」 10代の半数が表現

メールやSNSなどで「OK」という単語をひらがなで「おけ」などと表現することがある10代の若者が半数に上ることが文化庁の調査で分かりました。こうした表現は、いずれも入力ミスがきっかけで使われるようになったとみられ、専門家は「若者の間で入力ミスであろうと、とにかく早く返信したほうが仲間に信頼されるといった思いが強い。若者が常にせかされた社会で生きていることの表れだ」と分析しています。(NHK NEWS WEB)


いや、それは違うだろうと思う。

まずは揚げ足取りで言うと、「up」を「うp」とするようなのは変換ミス由来だろうけれども、「ok」を変換ミスしたら「おk」にはなっても「おけ」にはならない。
それはそれとして、速く打つために「ok」ではなく「おけ」を選択している、それは現代の若者が常に社会から急かされているからだ、という、何でも現代社会の所為にするステレオチイプな論調には、違和感を覚える。

少なくとも十数年前には、ごく一部でしかなかったかもしれないけれども、承知を意味する「おけおけ」ということばが、口頭語として既に使われていた。
ただし、それが書記言語に取り入れられるには至っていなかった。当時の書記言語の主流は書簡であり、過度な口頭語の流入は、忌避されていたからである。
現代の書記言語は、メール然りライン然りtwitter然りSNS然り、口頭語との垣根は限りなく低くなっている。それで、口頭語「おけ」とか「おけおけ」が、書記言語に流入したに過ぎないように見える。

落語「大工調べ」の中で、与太郎から「あたぼう」とは何かと聞かれた棟梁が、「当たり前だ篦棒めを詰めたんだ、そんな長いことばを全部言ってたら温気(うんき)の時分には腐っちまう、日の短い時分には日が暮れちまう」と言う場面がある。
これを聞いて、「江戸っ子は社会から急かされていたのだ」などと言っても誰からも相手にされないだろうけれども、「現代の若者は…」と言われると、ついそうなのかと思ってしまう。

「ok」を「おけ」と表記する、「up」を「うp」と表記する現象の理由はいくつも考えられるはずなのに、まず何となくそんな気になりやすい現代社会の病理に短絡して決着しようとするのは、安直に思える。

続・昼下がりの月

もう一回だけ書いて、これで終いにする。

厳密には……」の続き、その3。

数寄屋橋のそばにあるデパートを出たところで秀一は煙草を買い、英子は、
「あ、月が出ている」
と空を見上げた。


英子にこれまで書いてきたような月に対する正確な知識があったわけではないだろう。が、昼の月が毎日見えるものではない、ということを感覚として持っているから、昼の月を見て、「あ、月が出ている」と言うのである。毎日見えるものなら、そんなことを言うはずがない。

空を見上げて、昼の月が出ていたら戻ろうと思い、見上げようとして、もし出ていなかったらと不安になって、汗ばむのかまわず歩き続けた。


作品の最後で、英子に空を見る決心がつかないのは、空を見上げても月が見えるとは限らないからである。
「昼の月が出ていたら」というのは戻るための踏ん切りである。踏ん切るためには月が出ていなければならない。が、月が見える確率は、さほど高くはない。
それがわからないでこの小説を読んでも、正しい解釈に至ることは覚束ない。

昼下がりの月

厳密には……」の続き、その2。

「戻ってくれ。たのむ」という秀一の言葉に、その選択を迫られた英子は、作品最後で、昼の月が出ているかいないかに賭けようとします。初夏の頃であり、よく晴れた昼下がりならば、昼の月は見える可能性は高かったでしょう。


この1文は、小説の結末部分について「昼の月」を絡めて説明したものだけれども、この理解はさすがに致命的である。
ここで「昼下がり」になっているのは小説の本文にそう明記されているからだが、それまでの「真昼時」がどこに行ってしまったのかは不明である。
それはまた措いておくが、「昼の月」が「晴天であれば、満月以外なら見える」のだとしたら、前者の条件は問題なく、後者の条件も29/30の確率で実現する(考慮されていないらしい新月を減算したとしても、14/15に下がるに過ぎない)から、たしかに、「可能性は高かった」と言える。それを前提として、空を見ることを躊躇する英子が、家に戻るという決断を先延ばしにしていると結論するのである。
空を見ればほぼ間違いなく見えるはずの月を見ようとしないのなら、たしかにそう思わざるを得ないだろう。が、その思い込みが間違いなのは、当ブログをご覧の方ならもとよりお判りのことだろう。

「昼下がり」――仮に午後2時として、月が見える可能性のあるのは月齢25日頃~翌10日頃の間だけである。ただしこの期間内でも新月なら見えないし、その前後の日も極めて細い月で、昼の月が見える、とは言いがたい。
また、小説の舞台になっているような都会なら、2時が月の出入の間際になる各1~2日は、建物の陰に隠れて見ることができない可能性が高いと思われる。とすれば、その時に月が見える可能性は、1/3程度しかなかったはずである。
もっと言えば、小説の内容からして半月に近い形の月が期待されることを加味すれば、多く見積っても可能性はそこからさらに半減する。
29/30(もしくは14/15)の確率に賭けようとしたと考えるか、1/3(もしくは1/6)の確率に賭けようとしたと考えるかで、作品の読みが根本的に変わることはない、とは断じて思わない。

「真昼時」?

厳密には……」の続き。

前回、月を見たのが「真昼時」だということに付き合って書いて来たけれども、そもそもこれが疑わしい。

英子が別れた夫の秀一と一緒に昼の月を見たのは、結婚指輪を誂えに出掛けた帰りである。


小説の本文には上記の通り確かに「昼の月」と書いてあり、この後にも「秀一」が「昼間も月が出るんだなあ」と言っている。
けれども、それと「真昼時」とは違うだろうと思う。「真昼時」という言葉には、正午前後の印象がある。
二人は「数寄屋橋のそばにあるデパート」を出たところで「昼の月」を見ている。
デパートの開店と同時に入ったのなら、出て来るのは「真昼時」かもしれないけれども、二人はこの後「有楽町の喫茶店」に入り、その後、姑と「指環を誂えたことを報告かたがた夕食を一緒にした」のだから、そんなに早い時間帯だとは思われない。

そもそも、「昼の月」の描写は、次のようである。

ビルの上にうす青い空があり、白い透き通った半月形の月が浮かんでいた。


半月だと明記されているのだから、月齢7日前後の頃だとしか考えられない。22日頃の月も半月だけれども、その月齢なら、月は昼前には沈んでしまう。
月齢7日なら月の出は11時30分過ぎ頃、正午には、まだ地平線からほど遠からぬ位置にある。1時間に15度ほどずつ昇る見当だから、「ビルの上」に月が見えるのは、早くて午後2時、恐らく3時頃までの時刻で、デパートでの買い物帰りに近くの喫茶店でひと息、というのに丁度良い時間帯だろう。そしてその後、姑の家に行って夕食を食べる……作者は、周到に時間を計って書いているのである。「昼の月」を「真昼時」だと思い込んで読んでいたら、こういうところが見えて来ない。

小説などの文学作品は、書かれていない(ように見えて、実は書かれている)ことまで読むと、よりおもしろくなるものである。表面的に書かれていることだけを読んでいてもそれなりにおもしろいだろうけれども、それでは少々、もったいない。








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